corsappoi blog

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※若干だけどネタバレ注意!(スカパーウォッチャーさんへ)

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今日でジロ・ディ・イタリアも終わる。
だからどうしたということでもない。そもそもジロの最中であるにもかかわらず、ジロ関連のネタなんて一つもエントリーしていないボクだ。それにスカパーだって見ていない。というか、スカパーには入っていない。なぜなら、仮にボクがスカパー環境なんてものを手に入れてしまった日には、間違いなくスカパー廃人になることは目に見えているからだ。以前、某国営放送がBSでツール・ド・フランスを放送していた頃に見事BS廃人になったという過去をもつボクとしては、二度と同じ轍を踏むわけにはいかないのだ。
今のボクはネットにある情報をチェックする程度だ。ちょっと時間に余裕があるときは、gazzetta.itあたりでゴールシーンをストリーミング再生したり。あくまでものめり込みすぎないように、ほどほどの距離をキープしながら楽しんでいる。喩えるなら、檻の外の安全な場所からライオンを見ているような感じだ。もちろん檻の中に入った方が間違いなくスリリングだし、白熱して楽しむこともできよう。ただ、食われるという危険性も孕んでいる。おそらくボクが檻の中に入った場合、片脚をムシャムシャ食われながらも「いやー、すごいね。これがコルサなんだよねー」なんて嬉しそうに感動してるんだろうな。それじゃあまるで自転車界のムツゴロウさんだ。そうはなりたくない。
そんなボクではあるけれども、さすがに昨日のステージだけはスカパーで見たいと思った。なんと終盤の上りで突如激しいダートが出現するのだ。ファウスト・コッピの時代じゃあるまいし、ありえなさすぎる! どうせなら誰か洒落っ気のある選手がスペアチューブをたすき掛けでもして走ってくれると最高にウケるんだけどなぁ……しかもウールジャージで。なんて勝手な想像をめぐらせてワクワクしているわけだ。ちなみにこちらで、実際のコースを試走したリポートが掲載されている。ありえない。ま、ありえないという点では同じPezCyclingNewsにあったこちらのソフィア・ローレン系シニョリーナちゃんも、また別の意味でありえない。存在自体がありえない。
さて、そんなふうに静観を装いつつも、じつは激しく応援しているチームというのは存在する。もちろんyottanがマッサーとして所属するFASSA BORTOLOである。ボクも自転車ジャーナリストではあるのだから、どこぞのチームに肩入れするというのもいかがなものかとは思いつつも、べつに今はレースリポートで食っているわけではないのでよかろうと。そんな言い訳で誤魔化してみたい。
そのファッサにとって、そしてエーススプリンターであるペタッキにとって、今年のジロは厳しかったようだ。まず、コースレイアウトが奇抜だった。先に書いた上りのダートも、そのことを示す象徴といえるだろう。平坦な区間であっても、いつもの年とはどこか違っていた。それに何よりも出場選手のレベルがとても高かった。そんな理由が重なって、残念ながら今年のジロはペタッキの独壇場とはならなかった。でも、それがレースだ。

で、このジロの最中のクソ忙しい中、またしてもyottanに画像クレクレ攻撃してみた。まったく面倒な要求ばかりする先輩でスマンな。
yottan.itの方でもアップされていたものなのだが、今回も一筋縄ではいかないチョイスである。どこがコルサなのかと。いや、これがコルサなのである。いかにもコルサの裏方ならではの目線、雰囲気、これが堪らない。細かく見ていくならば、まずは左下のタオルに注目。コルサはタオルまでお揃いの青。ファッサのアズッロなのだ。さらに重度なマニアになると、洗濯紐を支えている鋤みたいなの、あれがコルサに思えてくる。えっ、思えてきたって? 困ったものだ。そういう奇特なマニアさんのために、今回もデスクトップ画像用に加工してみた。サイズは1024×768dpiのみで申し訳ないのだけれど、これ以上のサイズになるとアップロードの上限を超えてしまうので。一応今回も再配布は禁止、個人使用限定でお願いしたい。
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2005.05.29 23:15 | corsappoi | trackback(0) | comment(3) |
※二つ前のエントリー「TOJに行ったリポート(前半)」からお読みください

ギュウギュウ詰めのバスに揺られて、やっと品川駅に到着した。ワイフに電話をしたのだけれど、息子は水族館に大喜びという状況で、しばらくは出られそうもないとのこと。仕方なくボクは一人、ウィング高輪の1階にあるコーヒーショップで待つことにした。ラテを飲みながら窓の外をボーッと眺めていると、コニカミノルタのシャツを着たコルサな一行が目の前を通りすぎる。それを見てハッと気づいた。すぐ近くに選手の泊まるホテルがあったのだ。と同時に、東京ステージで絶対に会いたかった誰かにまだ会っていないという事実を思い出した。シマノ・メモリーコープ阿部ちゃんだ。すぐに残りのラテを飲み干して席を立った。
小雨の振るなか、品川駅の高輪口から真っ直ぐに上っていく坂を急ぐ。そこでちょっとした出来事があった。向こうからバルロワールドの一行が下ってきたのだ。全部で7、8人いたのだけれど、それぞれがボクとすれ違うたびに、まずは手首の黄色い輪っかをチェック。そこで自転車関係者であることを確認し、次に胸のワッペンを見てギョッとする。最後に「誰だ、こいつ」という目でボクの顔を見るのだ。見事なまでに、目の動きが一致している。さすがはプロ(?)。
彼ら全員とすれ違ってから、背後で騒ぐ声が聞こえてきた。彼らにとってはかなりのサプライズだったのか、おそらく「何でファッサのヤツがこんなところに」という疑問をぶつけ合っている様子だ。しばらくして、好奇心を抑えきれなかったらしいバルロの選手がこちらに走ってくる気配を背中に感じた。さて、何と答えてやるかな。「チャーオ、じつはボクがファッサのナッカーノである」っていうのもアリだな。もしくは「いや、TOJが見たくて日本に来たんだよ。やっぱジロどころじゃないでしょ?」というのも悪くない。とにかく、レース会場ではノーリアクションだったこのポロシャツが、こんな高輪の石榴坂(ざくろざか)なんて地味な場所で、しかも本場ヨーロッパのコルサな連中に受けるとは、なんとも楽しい。ワクワクするぜ……。
やっぱり来た。ドキドキ。肩を叩かれて振り向いたボクに、彼はあろうことかいきなりイタリア語でまくし立てた。ダメじゃん……。イギリスのチームだから英語で来るに違いないと思い込んでいたボクのドリーム・プランは、呆気なく崩壊した。「いや申し訳ない、これはファッサのマッサーのナッカーノからもらっただけで」としどろもどろに伝えると、彼はうんうんと頷きながら、「なんだつまんねぇな」という顔をして戻っていった。しょぼーん。

ほどなくしてホテルに着く。選手がいるであろう場所まで迷うことなく到達するスキルは衰えていなかった。嗅覚なのか? だとしたら、それはマッサージオイルなのか、それとも自転車のチェーンオイルなのか。よくわからん。ともかくロビーの一角に陣取る大会事務局まで行き、係の人にボクの名前を告げて、電話で呼び出してもらう。
「あ、阿部ちゃん? 元気? 今ロビーなんだ」
「ええーっ! お久しぶりです。今すぐ降ります」
ロビーの椅子に座って、ボクは阿部ちゃんを待つことにした。
ここで、「阿部ちゃん阿部ちゃんて、誰やねん?」という方のために、ちょっと解説しておくことにする。今ではベテランとして陰の黒子に徹している観もあるけれど、それはそれはすごい選手なのだ。1996年にシマノからパナリアに移りプロに転向。97年には所属するパナリアがマペイGBと合併したことで、マペイGBのチーム員となる。その年は全日本選手権で優勝、ポーランド一周でステージ優勝、ジャパンカップではチームメイトのアンドレア・タフィのアシストを受けながら優勝という快挙を成し遂げた。2000年にはシドニー五輪に出場し、翌年はコルパックで活躍した。まさしく実力でヨーロッパを渡り歩いてきた男といってもいいだろう。
5分ほどで阿部ちゃんは現れた。シマノ・メモリーコープのブルーのボタンダウンシャツ、黒いズボン、アフターレース用のシマノ製の黒いシューズというコルサないでたち。体操ジャージにサンダルをペタペタと響かせながら「チィーーッスゥ!」ではないところが阿部ちゃんらしい(今どきそんなヤツの方が珍しいか)。本当に久しぶりだったから何だかちょっと恥ずかしかったけれど、まずはガシッと握手。その瞬間、最後に彼と会ったときのことを鮮明に思い出した。
ちょうど10年前の今頃のことだ。当時シマノの海外組として、阿部ちゃんはヨーロッパを拠点に活動していた。主要なレースがあるたびに一時帰国して、終わり次第またヨーロッパへ戻るというハードスケジュールをこなしていた。その年の4月に行われたアジア選手権で優勝。5月の国際ロード(現TOJ)では凱旋帰国を果たしたついでとばかりに、修善寺ステージで当時のスイスNo.1、2の実力をもつカメンツィン、グィドッティらを大きく引き離して優勝、その桁外れな実力を見せつけてくれた。
ボクは次号のカバーをぜひ阿部ちゃんに飾ってもらいたいと思い、過密スケジュールを調整してもらった。どうにかして都合をつけたという撮影日は、ふたたびヨーロッパへと旅立つ当日のことだった。撮影日当日もほとんど時間がなかったので、彼が泊まる成田のホテルの敷地内でパパッと済ませたのだけれど、なんとか無事に目的を果たせた。ほんの短い時間、彼は自分がヨーロッパで目指すものについて語ってくれた。そして最後に、ボクらは握手をして別れた。それからの彼の活躍は先に書いたとおりだ。
挨拶を済ませたボクらは、ラウンジに移って何か飲みながら話すことにした。しかし10年というのは長い。生まれたての赤ん坊が小学校五年生になってしまうほどの時間である。簡単には語り尽くせないほどの出来事がお互いにあった。けれど、彼のロードレースに対するストイックな思いが変わっていないことは確認できた。控えめで、内に秘める熱い思いを伝えるのが苦手な彼だけれど、「何かしたいんだ」という気持ちはとても強い。それがわかっただけでも十分だった。ボクは彼に一つの提案をし、彼も「喜んで」と快諾してくれた。その提案とは、いずれそのうち。
そろそろ閉会のレセプションがはじまるという時間になって、ようやく妻子が到着した。ボクはふたたび阿部ちゃんと握手をして別れた。阿部ちゃんが去ったあと、しばらく家族三人でゆったりとお茶を飲みながら、息子から水族館のみやげ話を聞いていた。

今、ボクの仕事場のデスクには、件の阿部ちゃんがカバーを飾ったときの号が置いてある。5月の新緑をバックに、目の覚めるようなブルーを基調としたシマノのジャージがよく映える。視線の先に、何かとてつもなく大きいものを予感させるような、アグレッシブでスピード感溢れるいい写真だ。
ふたたび、TOJで再会した三人のベテラン選手を思い出す。橋川選手、三船選手、そして阿部選手。この10年は、単に彼らに歳をとらせ、脚を衰えさせるための時間ではなかった。それぞれ目は輝いていたし、とてもいい顔をしていた。その豊富な経験を武器に、もっともっとレース界に波乱を起こしてほしいな……と、そんな期待を抱かずにはいられないボクなのだ。
2005.05.25 17:48 | corsappoi | trackback(0) | comment(2) |
※一つ前のエントリー「TOJに行ったリポート(前半)」からお読みください

しかしだ、今日のボクはやたらと大会のスタッフに間違われる。すくなくとも五回以上は背後から声を掛けられている。そんなに場慣れした雰囲気でもあるのかな……なんて思いながらスタッフを見てみると、なるほど、みんなボクと同じ紺色のポロシャツを着ているわけだ。じつはボクのブログを見ている人向けに、非常にわかりやすいと思われるアイコンを装備して、この日に臨んだ。まずは黄色い輪っか。そして、FASSA BORTOLOのスタッフ用である紺色のポロシャツ。胸にはしっかりと「Gruppo Sportivo FASSA BORTOLO」と刺繍されたワッペンが付いている。その結果が、これである。ちなみに誰からも声を掛けてもらえなかった。唯一気がついてくれたのは吉本君だけである。ま、こんなもんかな。怖い顔してるしさ、気がついても声なんか掛けてもらえないんだよ……と、自分に言い聞かせてみたり。

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表彰式に向かうための集団移動がはじまった。ボクらも流れに乗って、ゾロゾロと移動する。途中、やたらとデカイのがいるなぁと思ったら、某誌でボクが副編集長をしていた時代にデッチーとして採用したサイトーだった。以前からそうなのだが、彼はボクを目の前にすると萎縮して身長が30cmは低くなる。今回は家族も一緒の様子だったので、ほどほどにして切り上げることにした。名刺を渡し、「またな。連絡しろよ」と言うと、コメツキバッタのようにヘコヘコしながら帰っていった。
さらに数歩進むと、今度は中野にある自転車店Piacere YAMAの山本氏に会った。彼は、ボクが雑誌のライターをはじめる以前に勤めていた老舗のディストリビューターで上司の立場にあった人物だ。恥ずかしいぐらいにコテコテの輪界人であり、自転車大好き、ロードレース大好きの楽しいオッサンである。恥ずかしいぐらいに輪界的なオッサン会話を繰り広げつつ、一緒に表彰式に向かった。会話の一部を小耳にはさんでしまった方がいたとしたら、ぜひとも誤解しないでいただきたい。アレはあくまでもオッサンに合わせていただけであって、間違ってもボクの本来の姿ではない。
そんな紆余曲折を経て、やっと表彰式の会場となる広場にたどり着いた。適当に場所を決めてふと後ろを振り返ると、木の陰にひっそりと佇む男がいる。一昨年までFASSA BORTOLOのメカニコを務めていた永井君だった。つまりyottanの元同僚である。現在は自由が丘でPositivoというオシャレな自転車店を経営している。じつは、ボクはまだラバネロで働きながら実業団レースを走っていた頃の彼しか知らない。もちろんyottanを介してお互いの状況はある程度は伝わっていたのだけれども、それは今までの空白を埋めるほどのものではない。表彰式を横目に、ボクらの話は尽きなかった。
セレモニーも終盤となり、総合優勝者であるバルロワールドのカルデナス選手へのインタビューがはじまった。コロンビア人の選手にイタリア語でインタビューすべく、今中氏が壇上に上がった。怪しい……。白いワイシャツに黒いズボン、ミョーに日焼けした肌、茶髪、巧みな話術。ボクは素直に感じたままを永井君に伝えた。「あのさ、ほら、あのツール・ド・フランスに出たあの人さ、年を追うごとにパワーアップしてる感じがしない?」と。それを聞いた永井君は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。発言したあとで思い出したのだけれど、永井君の立場では肯定なんてできるはずもない。今中氏は彼にとって同郷の偉大なる大先輩なのだ。ちゃんと先輩を立てるあたりは、さすが体育会だなぁなんて感心してみたり。しかし右に吉本君、左に永井君という極上のポジションを得ながら、いったいどれほど高尚な話をしていたのかというと、そんな程度のことだ。一応、彼らの名誉のために付け加えておくが、そんな程度の話を盛んに振っていたのは、一方的にボクの方である。
名残惜しいけれど、TOJは終わった。お開きの時間だ。ボクは妻子の待つ品プリの水族館に行くため、バス乗り場に並んだ。クルマで来た吉本君が「どこまで帰るんですか?」なんて誘ってくれたけれど、助手席にギャルが乗っているのを見て断った。吉本君て、本当にいいやつなんだな。ボクが逆の立場だったら、間違いなく無視してかっ飛んで行くと思うよ。というか、彼を鍛えた菊地ちゃんが偉大なのかもしれないけれど。

と、ここまで書いたところで、まだ書ききれないということに気づいた。自分の計画性のなさにただ呆れるばかりなんだけれども、じつはまだ終わったわけではない(たしかにレースは終わったけれど)。というわけで、次回「TOJに行ったリポート(おまけ)」に続く。
2005.05.24 10:39 | corsappoi | trackback(0) | comment(0) |
TOJ(ツアー・オブ・ジャパン)の東京ステージを家族で見に行った。息子がどうしてもというので、ボクも仕事をあきらめて出掛けることにしたのだ。
以下、あくまでもボク目線でのリポートなんだけれど、書き出したらもう止まらなくなってしまった。だから、前半と後半に分けることにした。ちなみに、雑誌で書いていた頃のようなレースリポートとはまったくの別モノなので、あまり期待しないでいただきたい。

電車を乗り継ぎ、品川駅で下車。京急デパートで用意周到にお弁当を買い込み、バスに揺られて11時半すぎに大井埠頭に到着。まだまだレースは中盤に入ったばかりという段階で、何人かの選手が逃げている状況だ。逃げの集団にはキナン橋川選手も含まれていると知り、ちょっと嬉しくなった。ベテラン選手の活躍は、ボクらの世代にとってこのうえない励みになる。頑張れ、橋川選手!
12時ちょうどに息子が「お腹がすいて死にそうだ」と騒ぎ出すので、仕方なくお弁当を食べることに。みなとが丘埠頭公園のステージ奥のベンチに腰掛け、激しく反響しまくる今中氏の実況をBGMに、優雅にランチをいただく。息子はまるでフランス貴族のように、一時間近くかけてランチを食べ終えると、今度は「もっと奥の方まで探検しよう!」と来た。昔は毎日のようにシクロクロスで攻めていたほどの勝手知ったる場所なので、息子を案内しながらも懐かしさがこみ上げてきたり。
息子はレース中であることなんかもうとっくに忘れて、やれテントウ虫がどーのとか、お次は団子虫がどーしたとか、付き合ってたらきりがない。
「もういい加減にパパは行くぞ。レース終わっちゃうもん!」と宣言してコースに戻ろうとすると、今度は「おしっこ」と来た。激混みのトイレに連れて行き、やれやれやっとレースが見られると思ったら、今度はワイフが「私もトイレ行くね」と来る。まったく何しに来たんだか……。
オーロラビジョンを臨む格好の観戦ポイントで、サイスポの吉本君を発見。彼と会うのは二年ぶりぐらいなので、それなりにいろいろと話が弾んだ。ピナレロのフルカーボンの試乗車(出来立てホヤホヤ)を持っていたので、ちょっと貸してみぃと取り上げ、飽きたので返した。もうちょっとコースを歩いてみたかったボクは、とりあえず吉本君と別れて北部陸橋方面に向かった。と、しばらくしてワイフが「ねぇ、まだ終わんないの? 帰りに水族館に寄るって言ってたけど、早くしないと終わっちゃうよ」と言い出す。完全に息子と結託している模様。ああもういいよ、と。行きなよ、と。ボクはシャトルバス乗り場まで二人を連れて行って、「ささ、乗った乗った。楽しんできなー」と手を振った。ふうっ、これでもう誰にも邪魔されずにレースを楽しめる。
すっかり身軽になったボクは、ふたたびコースに沿って歩き出した。ほどなく、リタイアしたばかりの橋川選手が自転車に跨って、ゆっくりと走ってきた。まだ苦しそうな表情だ。「やあ、久しぶり」「お元気でしたか」なんて月並みな挨拶を交わしてから、「どうした? さっきまで盛んに逃げてたのに」と尋ねた。「いや、じつは熱がひどくて……」と。ボクは絶句した。橋川らしいとも思った。熱があるにもかかわらずレースに出てしまうのも相変わらずだけど、さらにリーダージャージ擁するバルロワールドが掌握し停滞したままのレースに活気を与えようと逃げを打つ。そういう心意気に久しぶりにふれて、ボクはすぐに言葉を返すことができなかった。「連絡するよ。また会おう」とだけ伝え、まだ湯気の立ち上る背中をポンポンと叩いて別れた。
いよいよレースはゴールのときを迎えようとしていた。橋川選手と入れ替わるようにして、ラバネロの飯島選手、そしてミヤタの三船選手らが先頭集団に加わった。またしてもベテラン勢が活躍している。オーロラビジョンの近くで吉本君と再会。一緒にレースの行方を見届けることにした。
ファイナルラップ、ゴールまであと僅かという時点で、逃げていた先頭集団はついに飲み込まれた。どうなるのか……ハラハラドキドキしながらそのときを待つ。優勝はオーストラリアのサンダーソン選手。さすがオーストラリア、かのマキュエンの国である。続いてカペックのバザイエフ選手ときて、三位にはBSの宮澤選手、四位には、何と先ほどまで逃げていた三船選手が入った。後方集団に吸収された時点で、すでに脚は売り切れてしまったものと思っていたから、これには驚かされた。
ゴールした勢いのまま、三船選手がボクらのいる方に走ってきた。ふらふらしながら目の前を通りすぎる。一仕事終えたベテランの貫禄を見せる彼は、ボクのよく知っている「トホホの三船」ではなかった。四位という成績は彼にとっては不本意だったのかもしれないけれど、それでもヒーローだ。だから、久しぶりに会う彼ではあったけれど、野暮な挨拶はしたくなかった。「お疲れさん!」と小声でつぶやきながら、背中を叩いただけ。あんなので、果たして気がついたかね……。
とにかく、ベテラン選手たちが頑張っていたのは、ボクにとって本当に嬉しいことだった。橋川選手も三船選手も、とても頼もしい、いい顔をしていた。かっこよかった。いいレースを見させてもらったよ。
2005.05.23 08:46 | corsappoi | trackback(0) | comment(0) |
目が覚めて外を見ると、薄曇りの様子。
昨夜、東京自転車生活さん多摩サイ日記を見たおかげで、走りたい願望がピークに達していた。空を見上げてしばし迷ったものの、やはり敢行することに。
nasubiさん的に言うならば「なりきりファッサ」、しかもボンディングとサーモドレスによるコルサっぽい完全装備で多摩川へ出発した。
と、走り出して気づいたのだけれど、いつもと何かが違う。明らかに違う。あ、今日は天気が天気だから、いつもと違ってイエローレンズのサングラスしてるからかな? とかいろいろと考えて、多摩川に着いたあたりで気がついた。ほんのりと、春の陽気なのだ。空気が、匂いが違う。そのことに気づいたとたん、もう脳みそまで春の陽気になった気分。いつもよりペダリングも軽やかに、あっという間に是政橋に着く。冬場は多摩サイのみと決めているのだけれど、絶好調な陽気にスピニング全開で気をよくしたボクは、そのまま左折して稲城に向った。
稲城はボクにとって、さまざまな思い出が詰まった場所だ。大学時代に稲城の近くに住んでいたこともあり、買ったばかりのフルカンパ仕様のPIAGGIO Bianchiを駆って一帯を走り回っていた。当時まだ未開拓だった稲城は、ロードレーサーにとって天国といっても過言ではなかった。街道のダンプが落としていく砂利が路肩に溜まり、そのせいでコケたりすることも多かった。でも、それも楽しいうちだった。純粋に、心底自転車に乗ることを楽しんでいた時代。もうかれこれ20年以上も前の話だ。
そのうちアルファビルというチームができた。日曜日の午前中に大井埠頭に集まって10周するのが基本なのだけれど、やがて本気でレースに取り組むメンバーも増えてきた。そこでボクは平日の練習にお勧めのコースとして、連中を稲城に連れて行ったのだ。みんな稲城に通いはじめ、ハマった。そしてボクも知らなかったような名所を次々と見つけてきては、勝手にネーミングするようになった。たとえば「稲城のロンバルディ」。周囲の景色や荒れた路面なんかが、いつかミロワール誌で見たロンバルディそのものだったことに由来する。今でもその道路は存在するものの、がけ崩れだかなんだかで通行できなくなってしまった。あとは「ロータスの壁」。ご存知ベルギーのレース、リエージュ~バストーニュツール・デ・フランドルの名所「コッペンベルクの壁」をもじったようなネーミングだけど、稲城に何箇所かある壁のような激坂のなかでも、最も勾配がきつくて長い直線の坂だ。で、その坂の途中にロータス・ヨーロッパがいつも停まっていたからというのが由来らしい。いずれにしろ、安易で子供っぽい印象は否めないのだが……。そんなふうに、ボクらは愛着をもって稲城に通っていた時期がある。
楽しい時間はあっという間にすぎる。1990年に日本で自転車世界選手権大会が開催された。そのお祭り気分の余韻が冷めるのと同調するかのように、ボクにもアルファビルの連中にも変化が訪れた。
ボクは自転車雑誌の編集者になった。土日はもっぱらレース取材。自分の担当するリポートやインプレの取材で走ることはあっても、それは仕事のためだ。いつしかボクは仕事のためだけに走るようになっていた。
中野(yottan)はサーティワン・ジャイアントに移ってしばらく走ったけれど、早々に選手としての自分の力量に見切りをつけて引退。小守スポーツマッサージを経てイタリアへ渡った。ビアンキ好きが高じて、自由が丘にLa Galleria Bianchiなるイタ飯屋を開いたヤツもいる。上野にあるY系列の自転車店ASAZOの現店長も、ボクらの仲間の一人だ。それ以外は業界的な公人ではないのでここでは控えることにするけど、みんなそれぞれに自分の人生を見つけ、歩んでいる。
あの頃は楽しかったな……と、久しぶりに稲城に向う途中、ボクはそんな様々なことに思い巡らし、ノスタルジックな感傷に浸りながらペダルを回していた。

で、肝心の走りはどうだったのかというと、いやそれはもう久しぶりですから。いきなりの激しいアップダウンにヒーヒー言わされ、ボクの体内は春の陽気を通り越して初夏に近かったような。
あくまでもイメージしていたのは、jinxさんみたいな走りの実現だったのだけれど……。

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2005.02.09 20:05 | corsappoi | trackback(1) | comment(6) |
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