corsappoi blog

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世界中のカンパニョーロオタクどもの巣窟として知られるCampy Only! さんに、こんな恐怖体験リポートが掲載されていた。
いや、犬ならまだいいさ。自分よりも大きい自転車を追いかけてくるわけだから、おそらくは単なる好奇心なのだろうと察しはつく。しかもうまくいけば心を通わせることだってできる。ヤンキーだってまだマシだ。ちょっと脅せば黙って消える。
でも、七面鳥は怖いでしょ。追いかけてくる理由もわからない。仮にこちらを食べ物だと思い込んで追いかけてくるのだとして、はたしてヤツらはどんな動きで攻撃してくるのか、どんな残忍で卑劣なやり方で人間様を平らげようというのか、もう何考えているのかわからないからこそ怖い。しかもヤツらは集団で、ものすごいスピードなのだ。
これを対岸の火事としてとらえていいものだろうか。たとえばカラスの集団、鳩の大集団、最悪イノシシに追いかけられるということはないのか。可能性としては完全には否定できない。明日は我が身かもしれない。
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2005.06.06 22:58 | journal | trackback(0) | comment(4) |
いつもコメントを残してくれるnasubiさんが、自身のブログエントリーした記事の中に過去の関連記事へのリンクがあった。ボクはたまたまそのリンク先の記事を読んでいなかったのだけれども、なかなかに興味深いというか、身につまされる内容だったのでTBしてみる。
記事によると、nasubiさんは2002年の暮れからロードバイクの世界に足を踏み入れ、すでに自転車雑誌には飽きてしまったらしい。もはやネットの情報で十分なのだそうだ。いやいくら飽きたとはいっても、それはちょっと早すぎる気もするなぁ……と、しばし腕組みしてはみたものの、これも時代の流れなのだろう。
もしかするとものすごく飲み込みの早い人なのかも知れないし、もしくは単に飽きっぽい性格なのかも知れないんだけれど(失礼)、理由はどうあれ、nasubiさんに対して自転車総合誌がその程度のモチベーションしか与えられなかったというのは事実だ。
nasubiさんのいうところの三大誌に含まれるAとかいう出版社のBとかいう媒体にいた立場から、べつに擁護するつもりはないんだけれども、ちょっと事情を説明させてもらいたい。そもそも総合誌というのは飽きられるものなのだ。それが宿命でもあると言ってもいい。なぜなら、総合誌は一人の読者のためのものではない。まだ自転車すら手に入れていない初心者もいれば、ほんの1%程度の必要な情報のために読むようなベテラン読者もいる。しかもロードもマウンテンもツーリングもBMXもフォローしないといけない。限られたページ数をそれら各ジャンルに割り振り、なおかつ雑誌を読むことで知識を増やし進歩していく読者に常に歩調を合わせ、すべての読者から満足を得るなんていうのは、所詮ムリな話なのだ。
たしかにネットが現れる以前であれば、それでもよかった。何せ情報はそれ以外にないのだから。だからとっくに卒業していてもおかしくないようなレベルの読者であれ、消極的なモチベーションながらも雑誌を買ってくれていた。でも時代は変わった。もはやネットは出版界にとって侮れない存在であることが明白になり、どの出版社も変革を余儀なくされた。
自転車雑誌をもつ出版社であれば、こういう選択肢もあっただろう。つまり、ロードもマウンテンもツーリングもBMXも……という横割りではなく、ロードならロード、マウンテンならマウンテンと、縦割り軸に方向転換するというやり方だ。アウトドアブームに端を発する自転車ブームのお陰で、スポーツとして自転車をとらえる人の全体的なパイも拡がったことだし、それぞれのジャンルを独立させて雑誌を作ったって採算がとれたはずだ。でも、それだと今度は編集者の自転車に対する思い入れや知識量が求められてくる。しかもそういう専門領域に特化した編集者を揃え、さらにコントロール(マネジメント)するのも大変なことである。ボクみたいなのが編集部にゴロゴロいる状況を考えれば、その大変さは容易に察しがつく。でも、ボクらはそう変わるべきだと主張した。今思えば「青かった」としか言いようがないんだけれど。
結局、Aのようなクラスマガジンといわれる雑誌で生業を立てる出版社は、ムックの乱発という道を選んだ。それがいいか悪いかは別問題としても、出版社として生き残る道を必死に模索した結果なのだろうとボクは解釈する(ちょっと持ち上げすぎたか…)。

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かく言うボクはどうなのかというと、べつに威張れたものではない。何せ、はじめてネットに接続したのは遥か昔。編集部でこっそりと電話線を外し、68KのPowerBookの内蔵14.4kbpsモデムに繋げ、「ピーーーヒャーーラララ」というアナロジカルな接続音を確認しては感動していた次第だ。そんなお粗末な状況が世の中の標準だったからこそ、ボクは安易にネットの将来性なんて信じるわけにはいかなかった。
これでもボクは本好きなので(あたりまえか)、もちろん未来学者アルビン・トフラーの著書『第三の波』だって読んでいた。人類が農耕社会、産業社会を経て、そして今まさに新しい文明である情報化社会に到達しつつあることは認識していた。トフラーは『第三の波』のなかで、かなり具体的な未来図を示している。
「第三の波の文明は、少数のマス・メディアによって文化を支配するのをやめ、相互作用を持った非マス化(脱画一化)メディアに依存することになりそうである。それは、きわめて多様で、しばしば非常に個人的なイメージを社会の精神の流れに注ぎ入れたり、汲み取ったりするに違いない」
まさしく2005年のボクの目の前にある状況そのものなのだけれど、当時のボクはトフラーの提唱する未来と現実とを結びつけられずにいた。むしろ「だからといって紙がなくなるということではない。今後も紙は残り続けるだろう。紙は携帯性に優れ、気軽に文字を書き込むこともできる。そして何よりも、破り捨てることができるのだ」という同氏の言葉の方に説得力を感じてしまった一人だ。
「デジタル時代のニュージャーナリズム」と銘打った雑誌『WIRED』も創刊号から欠かさずに読んでいた。サンフランシスコの小さな出版社から発行され、デジタル時代の到来とともに全世界に広まっていったという歴史的な雑誌である。先のトフラーが描いた未来図に対して、その状況証拠をかき集めるといった趣旨に基づき(たぶん)、「今まさに、我々の環境、政府、家庭、教育、仕事、それらの関係性が劇的に変わろうとしている」なんてことを盛んにアピールした。そして事あるごとに、「今だ! 乗り遅れるな!」とさんざん不安感を煽ってくれた。ボクはその雑誌を前にして、「でもそういうお前は相変わらずの紙媒体じゃん」と切って捨てた。でも、否定しつつも読み続けた。ボクは信じようとする前に、信じないで済むためのロジックを探していたのだけれど、一方では彼らが掲げる未来図についても気になって仕方がなかったのだ。
ボクらライターや編集者は、本来的には情報を伝えるのが仕事なわけだから、べつに何が何でも紙に固執する必要はない。でも、何となくネットの将来よりも紙の生き残る道を模索したいという気持ちの方が強い。言葉は悪いが「腐れ縁」みたいなものだ。だからボクは紙媒体の仕事をベースに据え、あくまでも実験的な試みとして今年の年初からブログをはじめてみた。じつに『第三の波』から20年、『WIRED』から10年、ずいぶんと時間がかかった。そして自身もブロガーとなった今になって、ようやくネットの可能性、将来性に対して信じるに足るだけの確証を得られた。しかも遅れて入ってきた分、自分がやるべきであろう残された領域が目について仕方がないという状況なのだ。
ボクが他の仕事を置いたままにして取り組んでいるビギナー向けの新サイトの話は、今までにも何度かお知らせしてきた。果たしてそれがnasubiさんたちのような紙媒体を卒業した人たちをも満足させられるものになるかどうかはわからないけれども、今までに誰も試みたことがない画期的なシステムを考案中である。オープンまで、もうしばらくお待ちを。
2005.05.30 23:35 | about kuro | trackback(0) | comment(4) |
※若干だけどネタバレ注意!(スカパーウォッチャーさんへ)

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今日でジロ・ディ・イタリアも終わる。
だからどうしたということでもない。そもそもジロの最中であるにもかかわらず、ジロ関連のネタなんて一つもエントリーしていないボクだ。それにスカパーだって見ていない。というか、スカパーには入っていない。なぜなら、仮にボクがスカパー環境なんてものを手に入れてしまった日には、間違いなくスカパー廃人になることは目に見えているからだ。以前、某国営放送がBSでツール・ド・フランスを放送していた頃に見事BS廃人になったという過去をもつボクとしては、二度と同じ轍を踏むわけにはいかないのだ。
今のボクはネットにある情報をチェックする程度だ。ちょっと時間に余裕があるときは、gazzetta.itあたりでゴールシーンをストリーミング再生したり。あくまでものめり込みすぎないように、ほどほどの距離をキープしながら楽しんでいる。喩えるなら、檻の外の安全な場所からライオンを見ているような感じだ。もちろん檻の中に入った方が間違いなくスリリングだし、白熱して楽しむこともできよう。ただ、食われるという危険性も孕んでいる。おそらくボクが檻の中に入った場合、片脚をムシャムシャ食われながらも「いやー、すごいね。これがコルサなんだよねー」なんて嬉しそうに感動してるんだろうな。それじゃあまるで自転車界のムツゴロウさんだ。そうはなりたくない。
そんなボクではあるけれども、さすがに昨日のステージだけはスカパーで見たいと思った。なんと終盤の上りで突如激しいダートが出現するのだ。ファウスト・コッピの時代じゃあるまいし、ありえなさすぎる! どうせなら誰か洒落っ気のある選手がスペアチューブをたすき掛けでもして走ってくれると最高にウケるんだけどなぁ……しかもウールジャージで。なんて勝手な想像をめぐらせてワクワクしているわけだ。ちなみにこちらで、実際のコースを試走したリポートが掲載されている。ありえない。ま、ありえないという点では同じPezCyclingNewsにあったこちらのソフィア・ローレン系シニョリーナちゃんも、また別の意味でありえない。存在自体がありえない。
さて、そんなふうに静観を装いつつも、じつは激しく応援しているチームというのは存在する。もちろんyottanがマッサーとして所属するFASSA BORTOLOである。ボクも自転車ジャーナリストではあるのだから、どこぞのチームに肩入れするというのもいかがなものかとは思いつつも、べつに今はレースリポートで食っているわけではないのでよかろうと。そんな言い訳で誤魔化してみたい。
そのファッサにとって、そしてエーススプリンターであるペタッキにとって、今年のジロは厳しかったようだ。まず、コースレイアウトが奇抜だった。先に書いた上りのダートも、そのことを示す象徴といえるだろう。平坦な区間であっても、いつもの年とはどこか違っていた。それに何よりも出場選手のレベルがとても高かった。そんな理由が重なって、残念ながら今年のジロはペタッキの独壇場とはならなかった。でも、それがレースだ。

で、このジロの最中のクソ忙しい中、またしてもyottanに画像クレクレ攻撃してみた。まったく面倒な要求ばかりする先輩でスマンな。
yottan.itの方でもアップされていたものなのだが、今回も一筋縄ではいかないチョイスである。どこがコルサなのかと。いや、これがコルサなのである。いかにもコルサの裏方ならではの目線、雰囲気、これが堪らない。細かく見ていくならば、まずは左下のタオルに注目。コルサはタオルまでお揃いの青。ファッサのアズッロなのだ。さらに重度なマニアになると、洗濯紐を支えている鋤みたいなの、あれがコルサに思えてくる。えっ、思えてきたって? 困ったものだ。そういう奇特なマニアさんのために、今回もデスクトップ画像用に加工してみた。サイズは1024×768dpiのみで申し訳ないのだけれど、これ以上のサイズになるとアップロードの上限を超えてしまうので。一応今回も再配布は禁止、個人使用限定でお願いしたい。
2005.05.29 23:15 | corsappoi | trackback(0) | comment(3) |
前回の「TOJに行ったリポート」は、さすがにダラダラ感が否めない。いくら個人的なブログとはいえ、お見苦しいかぎりだなぁと反省。ああやって際限なく書きたいことを書きたいだけ書きまくるような癖がついてしまうと、今後の仕事にも悪影響を及ぼしかねない気がするので、すくなくとも今日のところは簡潔にいこうと決めた。

今日ボクがフィーチャーしたいのは、ずばり「サイトー」だ。そう、TOJ東京ステージの会場でボクを前にコメツキバッタと化していたデカイ男の話である。
彼は図体がデカイわりには気が小さい、声が小さい。歩幅は狭いし、そのうえ内股で歩きやがる。ズボラなわりにはどうでもいいような小さいことにこだわる。そのくせ、こだわるべきところにはこだわらない。こっちはやることを山ほど抱えながらも必死な形相で原稿を書いているというのに、その様子を夢見心地な表情でボーッと眺めていたりする。サイトーはそういう男だ。
エディタースクールに通いながら将来を夢見る学生アルバイターにとっては酷な現実だったかもしれないけれど、編集部というのはまさに鉄火場である。そのことをいつまで経っても理解しないサイトーは、常に、ボクに怒鳴られていた。

1回目 「サイトー、ちょっと……」
2回目 「サイトーーーー!」
3回目 「サーーイーーートーーー!」
4回目 「てめぇ、サイトー!」
5回目 「てめぇ、この野郎!!」
6回目 「ちょっと来いぃぃっっ!!」

という具合に10段活用までいくわけだ。終いには、ボクがなかなか原稿が進まないことに苛立って、あくまでも個人的に「チッ!」とか舌打ちするのにまで過敏に反応し、ガバッと椅子から立ち上がって「はいっ!」なんて答えたりする。サイトーはそういう男だ。
締め切りを目前にして疲れが溜まりすぎ、怒鳴る気力さえ起こらなくなるようなこともある。サイトーはそういう微妙な変化を察知する繊細さも持っている。優しいのだ。たしかに優しいのだけれど、でも、だからどうした。彼はニヤついた顔でのそーっと現れて、「あはっ、今日はどうしちゃったんですかー?」と来る。ボクからすれば挑発としか取れないような発言だ。自分の怒鳴られる頻度をボクの健康のバロメーターのようにとらえているのか、こいつは……と。そう考えると、無理を押してでも怒鳴ってやりたくなるというものである。サイトーはそういう男だ。
そんなサイトーだが、百回に一回ぐらいは役に立って褒められたりもする。でも褒められたとたんに気が緩み、想像を絶するような、ありえないレベルのヘマを仕出かす。それが、サイトーなのだ。

そんなサイトーとおよそ9年ぶりに再開したわけだが、彼は今、大手総合商社資本の某IT企業のプロデューサー職にあるらしい。すごいね。でも、だからどうした。ボクの目の前で萎縮し、コメツキバッタのようにヘコヘコするサイトーは、相変わらず昔のサイトーのままだった。ボクはそれを見て、ちょっと安心した。「うん、サイトーはそれでいいんだよ」と思った。
後日、メールのやりとりでこのブログのURLを教えたのだけれど、喜びのあまり舞い上がったサイトーは案の定、不用意なコメントを残しやがった。ボクは「サイトーらしいな」と思いながら、自らのブログのコメント欄でドカーンと雷を落としてやった。そのあと届いた何通ものお詫びメールもサイトーらしかった。彼の希望で一連のコメントはすでに削除してしまったのだけれど、たぶん見た人は引いただろうな(申し訳ない)。でも、じつはボクは怒るどころか、むしろ嬉しかったのだ。
サイトーはそういう男なんだから。
2005.05.26 20:18 | my favorite | trackback(0) | comment(2) |
※二つ前のエントリー「TOJに行ったリポート(前半)」からお読みください

ギュウギュウ詰めのバスに揺られて、やっと品川駅に到着した。ワイフに電話をしたのだけれど、息子は水族館に大喜びという状況で、しばらくは出られそうもないとのこと。仕方なくボクは一人、ウィング高輪の1階にあるコーヒーショップで待つことにした。ラテを飲みながら窓の外をボーッと眺めていると、コニカミノルタのシャツを着たコルサな一行が目の前を通りすぎる。それを見てハッと気づいた。すぐ近くに選手の泊まるホテルがあったのだ。と同時に、東京ステージで絶対に会いたかった誰かにまだ会っていないという事実を思い出した。シマノ・メモリーコープ阿部ちゃんだ。すぐに残りのラテを飲み干して席を立った。
小雨の振るなか、品川駅の高輪口から真っ直ぐに上っていく坂を急ぐ。そこでちょっとした出来事があった。向こうからバルロワールドの一行が下ってきたのだ。全部で7、8人いたのだけれど、それぞれがボクとすれ違うたびに、まずは手首の黄色い輪っかをチェック。そこで自転車関係者であることを確認し、次に胸のワッペンを見てギョッとする。最後に「誰だ、こいつ」という目でボクの顔を見るのだ。見事なまでに、目の動きが一致している。さすがはプロ(?)。
彼ら全員とすれ違ってから、背後で騒ぐ声が聞こえてきた。彼らにとってはかなりのサプライズだったのか、おそらく「何でファッサのヤツがこんなところに」という疑問をぶつけ合っている様子だ。しばらくして、好奇心を抑えきれなかったらしいバルロの選手がこちらに走ってくる気配を背中に感じた。さて、何と答えてやるかな。「チャーオ、じつはボクがファッサのナッカーノである」っていうのもアリだな。もしくは「いや、TOJが見たくて日本に来たんだよ。やっぱジロどころじゃないでしょ?」というのも悪くない。とにかく、レース会場ではノーリアクションだったこのポロシャツが、こんな高輪の石榴坂(ざくろざか)なんて地味な場所で、しかも本場ヨーロッパのコルサな連中に受けるとは、なんとも楽しい。ワクワクするぜ……。
やっぱり来た。ドキドキ。肩を叩かれて振り向いたボクに、彼はあろうことかいきなりイタリア語でまくし立てた。ダメじゃん……。イギリスのチームだから英語で来るに違いないと思い込んでいたボクのドリーム・プランは、呆気なく崩壊した。「いや申し訳ない、これはファッサのマッサーのナッカーノからもらっただけで」としどろもどろに伝えると、彼はうんうんと頷きながら、「なんだつまんねぇな」という顔をして戻っていった。しょぼーん。

ほどなくしてホテルに着く。選手がいるであろう場所まで迷うことなく到達するスキルは衰えていなかった。嗅覚なのか? だとしたら、それはマッサージオイルなのか、それとも自転車のチェーンオイルなのか。よくわからん。ともかくロビーの一角に陣取る大会事務局まで行き、係の人にボクの名前を告げて、電話で呼び出してもらう。
「あ、阿部ちゃん? 元気? 今ロビーなんだ」
「ええーっ! お久しぶりです。今すぐ降ります」
ロビーの椅子に座って、ボクは阿部ちゃんを待つことにした。
ここで、「阿部ちゃん阿部ちゃんて、誰やねん?」という方のために、ちょっと解説しておくことにする。今ではベテランとして陰の黒子に徹している観もあるけれど、それはそれはすごい選手なのだ。1996年にシマノからパナリアに移りプロに転向。97年には所属するパナリアがマペイGBと合併したことで、マペイGBのチーム員となる。その年は全日本選手権で優勝、ポーランド一周でステージ優勝、ジャパンカップではチームメイトのアンドレア・タフィのアシストを受けながら優勝という快挙を成し遂げた。2000年にはシドニー五輪に出場し、翌年はコルパックで活躍した。まさしく実力でヨーロッパを渡り歩いてきた男といってもいいだろう。
5分ほどで阿部ちゃんは現れた。シマノ・メモリーコープのブルーのボタンダウンシャツ、黒いズボン、アフターレース用のシマノ製の黒いシューズというコルサないでたち。体操ジャージにサンダルをペタペタと響かせながら「チィーーッスゥ!」ではないところが阿部ちゃんらしい(今どきそんなヤツの方が珍しいか)。本当に久しぶりだったから何だかちょっと恥ずかしかったけれど、まずはガシッと握手。その瞬間、最後に彼と会ったときのことを鮮明に思い出した。
ちょうど10年前の今頃のことだ。当時シマノの海外組として、阿部ちゃんはヨーロッパを拠点に活動していた。主要なレースがあるたびに一時帰国して、終わり次第またヨーロッパへ戻るというハードスケジュールをこなしていた。その年の4月に行われたアジア選手権で優勝。5月の国際ロード(現TOJ)では凱旋帰国を果たしたついでとばかりに、修善寺ステージで当時のスイスNo.1、2の実力をもつカメンツィン、グィドッティらを大きく引き離して優勝、その桁外れな実力を見せつけてくれた。
ボクは次号のカバーをぜひ阿部ちゃんに飾ってもらいたいと思い、過密スケジュールを調整してもらった。どうにかして都合をつけたという撮影日は、ふたたびヨーロッパへと旅立つ当日のことだった。撮影日当日もほとんど時間がなかったので、彼が泊まる成田のホテルの敷地内でパパッと済ませたのだけれど、なんとか無事に目的を果たせた。ほんの短い時間、彼は自分がヨーロッパで目指すものについて語ってくれた。そして最後に、ボクらは握手をして別れた。それからの彼の活躍は先に書いたとおりだ。
挨拶を済ませたボクらは、ラウンジに移って何か飲みながら話すことにした。しかし10年というのは長い。生まれたての赤ん坊が小学校五年生になってしまうほどの時間である。簡単には語り尽くせないほどの出来事がお互いにあった。けれど、彼のロードレースに対するストイックな思いが変わっていないことは確認できた。控えめで、内に秘める熱い思いを伝えるのが苦手な彼だけれど、「何かしたいんだ」という気持ちはとても強い。それがわかっただけでも十分だった。ボクは彼に一つの提案をし、彼も「喜んで」と快諾してくれた。その提案とは、いずれそのうち。
そろそろ閉会のレセプションがはじまるという時間になって、ようやく妻子が到着した。ボクはふたたび阿部ちゃんと握手をして別れた。阿部ちゃんが去ったあと、しばらく家族三人でゆったりとお茶を飲みながら、息子から水族館のみやげ話を聞いていた。

今、ボクの仕事場のデスクには、件の阿部ちゃんがカバーを飾ったときの号が置いてある。5月の新緑をバックに、目の覚めるようなブルーを基調としたシマノのジャージがよく映える。視線の先に、何かとてつもなく大きいものを予感させるような、アグレッシブでスピード感溢れるいい写真だ。
ふたたび、TOJで再会した三人のベテラン選手を思い出す。橋川選手、三船選手、そして阿部選手。この10年は、単に彼らに歳をとらせ、脚を衰えさせるための時間ではなかった。それぞれ目は輝いていたし、とてもいい顔をしていた。その豊富な経験を武器に、もっともっとレース界に波乱を起こしてほしいな……と、そんな期待を抱かずにはいられないボクなのだ。
2005.05.25 17:48 | corsappoi | trackback(0) | comment(2) |
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